北九州ってどんなまち!① of kitakyushu-jc

日本青年会議所 JC jc jc ライトダウン わっしょい

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北九州ってどんなまち!①
~公害のまちから環境モデル都市へ~

1.公害のまち北九州市

北九州市の中央部には細長い洞海湾があり、中国大陸の鉄鉱石や筑豊炭田の豊かな石炭を利用できる地の利から、1901年にこの湾に面する旧八幡市に官営八幡製鐵所が建設されました。
以後、化学、窯業、セメント、電力などの工場が洞海湾をベルト状に取り囲むように林立し、北九州地域は四大工業地帯の一つとして、日本の鉄・重化学の拠点として日本の経済成長をけん引しました。しかしながら、経済の成長、産業の興隆は、一方で大気汚染や水質汚濁などの激甚な公害をもたらしました。工場から排出された七色の煙(※1)により、日本で初めてのスモッグ警報が発令されたり、垂れ流された排水で海が汚れ、死の海(※2)と呼ばれるほどの公害をもたらしました。そこで、立ち上がった市民運動をきっかけに公害を克服し、現在では環境に重点を置いた都市として機能すると共に、世界の環境首都を目指しています。

(※1 七色の煙)
1950 年代当時北九州の空は、酸化鉄の「赤」、カーボンの「黒」、セメントの「白」などに着色された煙に覆われていました。経済成長第一であった当時においては、市民はこの煙を「七色の煙」と称し、発展の象徴として誇りに感じていました。
(※2 死の海~洞海湾)
かつては水産資源に恵まれた洞海湾は、工場進出や周辺の都市化が進むにつれ、漁獲高は急速に減少しました。1966年におこなわれた調査では、洞海湾の奥から中央部にかけては、生物が生息できない「死の海」となっていることが明らかになりました。また、湾内を航行する船のスクリューが酸性廃液のために溶けるほどでした。





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七色の煙
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溶けたスクリュー

2、まちづくりと環境(公害克服の歴史)

このような状況の中で最初に立ち上がったのは、子供達の健康を心配した旧戸畑市の婦人会のお母さん達でした。婦人会では公害学習会を開き、直面する問題にどう対処していくのか検討しました。そしてこの悲惨な状況を知ってもらうために8mm映画「青空がほしい」を作り上映する事で、北九州の空をなんとかしようという運動を起こし、その運動は共感を呼び、大きな運動になりました。
 そんな中1969年 5月8日、日本最初のスモッグ警報が北九州市で発令されました。マスメディアに大きく取り上げられ、この日より北九州市民が、本格的に公害との戦いを始めました。1970年当時の北九州市長 谷 伍平は、総理大臣 佐藤 榮作に洞海湾の水質は大幅に改善を陳情、その年の国会で公害関係14法案が可決され、日本初の公害を規制法案が制定されました。市民も行政も企業も国も一丸となって公害問題に取り組みました。大気汚染の観測所を設置、下水道・緑地の整備、企業にも大気汚染防止の厳しい条件をだしました。産業のまちとして、北九州には技術開発力にすぐれた企業が多かったため、その条件に答える様々な公害防止技術が開発されました。わずか、4年後の1973年には、国の環境基準をクリアーし七色の煙はなくなりました。
また1969年に紫川堆積汚泥浚渫工事がおこなわれ、1974年には、洞海湾浚渫工事も開始され、1989年には洞海湾も紫川にも魚が戻り現在では100 種類を超える魚介類が生息しています。
 一連の取り組みにより、1985年経済協力開発機構(OECD)の環境白書において「灰色の街」から「緑の街」へ変貌を遂げた都市として紹介され、1990年国連環境計画「グローバル500」授賞、1992年の地球サミットで国連地方自治体表彰を受賞、2006年度、2007年度には2年連続で環境NGOのネットワークが主催する日本の環境首都コンテストで総合1位を受賞し、2008年には内閣より環境モデル都市として認定されました。


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現在の八幡製鉄所高炉跡
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市内の川で、飛び交うホタル

3、北九州青年会議所JCの環境への取り組み

北九州JCではさまざまな環境都市づくりに向けた取り組みを行っています。子供達への環境教育や市民と一体となって行う環境運動など、北九州市の豊かな自然を守り、未来を担う子供達へ引き継いでいくためのさまざまな活動を行っています。

今までの環境への取り組み
紫川浄化運動

1968年に北九州青年会議所は「川も心も美しく」をキャッチフレーズに「紫川浄化運動」を呼びかけました。当時の小倉の中心を流れる紫川は、工場からの廃液、ゴミが投げ捨てられ、悪臭が漂い、誰もがきれいにできるとは思えない状態でした。北九州JCメンバーの行政や市民への地道な呼びかけが少しずつ効果を現し、やがては北九州全市の川をきれいにする運動へと広がりました。この運動によってJCの地域社会に奉仕するという理念が、地域に深く静かに浸透していくことになりました。今日、紫川を中心に商業施設が整備され、上流ではホタルが飛び交っています。

詳しくは「紫川をきれいに(history:1968)」を参照
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KITA カイタ【(財)北九州国際技術協力協会】

1980年7月に、北九州JCが中心となって市民の草の根運動や国際製鉄大学構想を基盤に、産学官が一体となってKITAを設立しました。韓国、中国、タイなど東アジアの国の技術者をうけいれ、近代産業発祥の地である北九州市が蓄積してきた高度な工業技術や環境技術を発展途上国の人々に伝え、環境(公害克服)技術などの技術交流を図ってきました。
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エコエコ運動

1998年より、北九州JCでは「もったいない運動」を推進してきました。“地球と自然の再生産能力にあうように資源を使っていこう”という視点を軸に「エコエコ研究会」を発足。使い捨て型社会から長寿命の持続可能なストック型社会への転換を目指しています。エコエコ運動とは「economy」もったいないと思う考えと、「ecology」地球の再生産能力に合うように資源を使っていこうという考えが合わさった「economy as ecology」を略したもので「地球にある全てのものを愛し、大切にし、生かしていく」を基本に活動しています。
また、この運動を通じて、北九州青年会議所がめざす、「持続可能な社会の実現」という大きなテーマを見いだしました。
詳しくは「エコエコ運動(history:1998)」を参照
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関連リンク

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